昭和47年6月4日 特別奉修委員
中村良一
町田さん達の、あの、娘さん達が、ちょうど、夕べ、期せずして、あの、熊本から、北九州のほうから、久留米から、みんな集まって、夕べ、遅うまで、喜び合ったと言う話を、今朝、ご夫婦で参って、朝の御祈念にお届けしておられましたが、今また、みんな、連れのうて参って見えたんですけれど。特にその、熊本から、あの、町田さん達が、今日、お礼に出てきてるのは、今度、市役所のほうへ、あの、職が決まって、もう、二日間出ておると、こういう事です。もう、しかも、考えてみると、願ったり叶ったり、今まであの、壱岐の方で勤めておられた、それも、やはり、年数の中に入って、しかも、本雇いで、しかも、市長さんが、わざわざあの、就職の、そのことの通知を持ってきて下さったのか、手ずから下さったのか知らんけれども、頂いたち言うのは、もう、この人が始めてと言うような、まぁ、おかげのなかにある事を、実感しなければおられないようなね。あの、おかげを頂いて、もう、本当に、考えてみると、もう、本当に、親先生任せと言うか、あちらで、あれしておられるのを、御神意を頂いて、あの、熊本のほうへ来たが良いか、あちらで、今のままが良いかと言う時に、こちらへ来たが良かろうという事で、もう、一も二もなしに、早速、あちらのほうのお仕事を辞められて見えられた。
その間、あちらこちら、仕事のほうは、いわゆる、お爺さんになられる方が、なかなかの顔役ですから、あっちこっちに、ほぼ、決まっとったような中に、それが、一つ一つ駄目になっていく。結局、こちらの、合楽のほうへ、あの、何ヶ月でしたかね、あ、八ヶ月だったか。随分長かったですよね。もう、それでまぁ、本人も、やっぱ、いらいらされる筈ですよね。熊本のほうへ行ってみても、まぁだ仕事が、まぁ、あれだと言うので。けれども、本当に、野口つぁんが言われるように、この何ヶ月を、こちらへ居るか分からんけれどもね。その間に、もう、本当に、教会のそばに、こう、居らせて頂いて、どういう事が起こっても、信心で頂けれる信心を頂いて置けよと言う、神様の御神意に違いないて。親先生も、ちゃんとおかげというものは、もう、絶対なもの。ただし、一足飛びじゃいかん。ちゃんと、おかげのね、飛び石伝いと言うのがあるのだから。あの、飛び石伝いを、一つ一つ、間違いなし、行きよるとじゃから、しっかり信心の稽古をしとけと仰るからというので、おかげを頂いて、今日の、まぁ、それこそ、誰が見ても聞いても、考えてもね。もう、本当に、おかげと思わにゃおられない様なおかげなんです。
こりゃまぁ、そのお届けがありよりましたらね。んー、もう、二三年前にあの、高芝さんが、柳川に行ってから、あの、柳川の、あのお花から、お土産を買うて来とる。一升徳利を小さくした、白の徳利なんです。昔のあの、こう角の付いてね、口に。それをまぁ、飾りもんに、こう小さい、まぁ二合ぐらい入るでしょうか。その徳利を持って、お土産持って来とりますもん。その、野口つぁんの、おい出てある時に、その、お知らせを頂くんですよ。徳利です。小さい徳利をね。これが、一升はいる徳利なら、まぁだ素晴らしか。一升徳利ち、一生を、徳と利で暮らそうと言う、ね。けども、まぁ、ちょこっとばっかり、まぁ、一合五勺か、二合ぐらいなもんでしょうけれどもね。こういう風にして、徳と言うものは、蓄積されていくもの。しかもね、金光様のご信心は、もう、徳と利とが、一緒になっていくのです。利と言うのはおかげなんです。ね。徳と利と言うが、一緒に頂けていくと言うのが信心。もう、徳さえ積みゃ、あーたがのち、言うちから、困るという事は、絶対、あるはずは無い。徳を積んだら、おかげが伴うて来にゃならん筈。だから、そら、考えてみるとね、簡単なことだけれども、今まで長い、もう、ほんなら、親子三人で、結構、あちらで過ごさせていただいておると、いかに神様が、熊本に来いと言わっしゃったっちゃ、そげなわけに行くもんかち、野口つぁんが、言うとりなさりゃ、もう、それぎりの事。けども、神様が、仰るならと言うて、いわゆる、神様任せ、まぁ、親の信心で、見たり聞いたりしておるもんですから。親先生任せになっときゃ、もう、すぐおかげのように思われたのかも知れませんよね。ところが、どっこい、八ヶ月間という間があったんです。もう、その間には、もう、くさくさする事もあろうし、という様な事もあったろうと思うのですけれどもね。それをまぁ、お母さんの信心で、押さえ押さえ、その、いわゆる、親先生任せになったと言う事が、もう、すでに徳なんです、ね。そして、今度も、あちらへお出でられた時までは、まぁだ、職も決まってませんでしたけれども、その様な、大変な、もう、それこそ、しかも、税務のほうをなさっておられたそうですけれども、やっぱ、その関係のお仕事です。ね。しかも、その前の事も、こう、いただくと言うか、前のほうから、ずっと、本雇いなっとられる、始めから。ですから、それをその、まぁ何ですか、ずっと続いて、換算してもらえれると言うことね。年数も、もう、それだけ長く努めたという事になる訳なんです。という様なおかげを受けておるという事はです。もう、これは、ささやかながら、徳を受けた、小さいね。ですから、この徳が、いよいよ、大きなものになっていく事に精進して行きゃ、もう、これには、利は、絶対、付いて来るのです。ね。
あちらへやらせて頂かれたら、あちらの片岡さんのお宅に、ここで、私が書いたものが貼ってあった。それは、「楽とは、大きな心になること」だと書いてある。もう、これ以外に無いです。もう、自分が楽になりたいと思うなら、大きゅうなる以外に無いです。自分の心がこまいから、はばからんから、もう、苦しゅうて苦しゅうて、もう、張り裂けるごたるとじゃん。ね。だから、これが大きゅうなる。それでほんなら、難儀な問題なら、難儀な問題がです。それが、いよいよ、これを大きゅうして下さってる働きだと分かったら、その事に、お礼言わにゃおられんとですがねぇ。それをもう、情けない、人の縁側を流れるごたると、こう言うわけなんですけれど。大きゅう、神様が、して下さってる働きに対してです。不平不足を言うちゃ相すまん。やはり、お礼を申し上げなければおられないという事になる。
だから、例えば、少々の問題が起こっても、この中に泳がせれる。もう、そらもう、あーた、もう本当に、こげな事で腹立てんといった様な事でもね。腹の立つ段じゃなか。こっちへお礼申し上げよるとに、という様にです、ね。確かに、楽とは、大きな心になる事なんです。だから、いよいよ、大きな、より大きな心、ね。今朝辺りの御理解を頂いておりますと、そこんところの、おかげを頂いていくと言う事が力である。それが、自分が助かる。その助かる力をもって、ね。難儀な人達の助かっていくことを、いわゆる、その事を楽しみに信心させてもらう。ね。けれどもそのくさ、今、秋山さんじゃなかばってん、すらごつちゃ分かっとるばってん、なかなか、難しいかですねちいうわけなんですけれど、本当に難しい。そるけん、もうそこは、ずるずる引っ張られてからですね。先生が、そう言いなさったけんで、だけでは、いけないわけなんですよ。やはり、自分の心から、翻然として、すっきりとしたもの、ね。
例えば、今日の御理解なんか、頂いとりますと、もう、適切な、ね。ねずみ小僧次郎吉なんかの御理解なんか、もう適切です。誰でん、どげな馬鹿でっちゃ分かるです。ね。あれが、泥棒であるけれども、それが、庶民のための泥棒である。人が助かることのための泥棒だから、庶民は、それこそ、世直し大明神と言うて、拝むほどしの事になる。これが、ただ、自分の身欲のための泥棒であるとするなら、これはもう、ね。勿論それは、みんなに憎まれるだけでしょうけれどもね。だからその、泥棒の、どうのこうのじゃないけれども、信心もです、焦点が変わるとそういう事。世直しのために、人が助かることの為に、現在の修行があってるんだという事になればね。それはもう、今後の生涯にかけてね。もう、いよいよ、輝かしいものになっていくと言う御理解でしたよ。ほんにそうだと言われたからだの事じゃいかん。翻然としたものが生まれて来なきゃいけん。
昨日、末永さんが、今度、学院で、もう沢山その、合楽に、是非その、一月でも、五十日でも良いから、修行したいと言う申し込みが沢山あってるて。だからその、昨日、手紙が来てまして、その、親先生のお許しを頂きたいと言うて来とりましたから。昨日、ちょうど、五名でしたかね、その、修行をさせて頂きたいと、こういう訳なんです。各教会の、大阪の人もありゃ、四国の人もあるといった様な訳なんです。で、その事を、私、お届けさせてもらいよりましたらね、あの、飛行機から、落下傘を抱いて飛び降りますよね。だから、この飛行機に乗っとったら、危ないと思うたら、やっぱり、飛び降りなければ駄目だと。これは、今の生き方ではいかんと気付いたらですね。本気で、落下傘を抱いて、飛び降りるぐらいな勇気が無からなければ、駄目だという事です。
一心発起ですね。今、高山さんの、あの、お届けを聞かせていただいとってもです。今、息子さんが、大阪へ行って、もう、こちらにおる間はもう、心配のかけ通しじゃった。それがもう、本当におかげを頂いてから、架かってくる電話たんべんにね、もう、とにかく、もう、働き頭。もう、一日も、まだ休まずに。しかも、毎朝、出る時には、お剣先様をお祭りして拝んでいきよるよと言うて、電話がかかってきたと、こういう事なんですけれどもね。やはりもう、その、一心発起したわけです、ね。そういうところから、やはり、もう、本当に、たった、あれだけの、まぁ、いうなら、財産のあるお家でですよ。長男でありながら、大阪へ、家内子供連れて行かんならんというのじゃ、大抵な、やはり、一心発起をしたに違いないですね。それが、本当に、落下傘からね、このままでは、もう、高山の、親も子も駄目になるのだ。それで、ここで、一心発起しなければならないというところで、ほんなら、落下さん抱いて、飛行機から飛び降りるような気持ちで、飛び降りたところが、ぱーっと開いたような感じなんです。ね。それに何か、その事をいただいとったら、それに、五人も六人もの者が、一緒にぶら下がって飛び降りよるとこを頂いたち。そるけん、それじゃ、落下傘の、もう、ね。そげん何人でんは出来んでしょうが。だから、あれが行くけん、俺も修行に行こうち言うごたるごっじゃ出来んぞと、ね。旅費が無いなら、合楽まで、歩いてからでんと。誰でん行かんでん、一人ででも、修行に、どうでんこうでんやらせて頂くと言う精神が決まらなきゃ、来ちゃ行かん。その精神が決まったら、やって来い。と言うて、手紙を出しなさいと、私が言うてやったんですけれどね。適切ですねぇ。もう、だから、人が、真似じゃいかんていう事。だから、いうなら、親先生任せになってさえおきゃというのが、ほんなら、例えば、前田さんの場合は、ね。もうほんな、お母さんを信じとるからこそ、親先生よりも、お母さんのほうが信じとるぐらい、ね。ですから、あの、お母さん自身が、私は、徳を受けたとおもうですね。今度、娘達にその、まぁ、とにかく、親先生に任せなさい、という事は、私に任せなさいという事なんです。それが、八ヶ月の、ほんなら、難儀な時代も、それをいい続けてこれたという事。そこに、ほんなら、子供の助かりが、親の助かりに繋がらないはずがありません。ね。どうでも一つ、まぁ、おかげを頂いてね。これから、私は、本当思います、もう、町田さんのこれは、もう、兄妹で、一番、なんか、不幸せのような感じだったんですよね、邦子さんの、・・・。けども、私が、言いよった。んんね、この人は、絶対、おかげ頂くばいち。なしかち言うと、この人は、もう、野口が、一番困った時に、自分がもう、犠牲になって働いたちいうけんで、親孝行しとるけん、絶対、この人のおかげ頂かんはずはないと、言うとったっちゃ、実際は、兄妹で、一番に、不幸せのごたる感じでしたけれどですね。実際、今度、熊本へ行ってみて、なるほど、今度は、一番の幸せ者になるだろうと言う、その、そういう兆しがあるわけですね。だから、どうでも、お互いが、徳と利とが一緒に、連れのうて頂けて行くようなね、おかげを頂いて、しかも、それは、人真似じゃ出来ん。自分の心のなかに、翻然として、頂けるものが出来る、ね。そこに、信心修行があるわけですよ。もう、信心修行しておらなければね、それこそ、もう、分かとったっちゃ出来ませんですよ。もう、そらもう、本当に、そうです。私は、今度、あの森部じゃなかったあの、いなかずの高山さんの話を聞いてね。それを思いました。もう、本当に、親先生、そんならもう、なんでんかんでん、有難うちさえ言うとりゃ良かですねち。もう、一番はじめに、参ったときから、そうでしたよ、この人は。御理解もそげんでした。誰でも、マッチをつけてから、はぁ、有難いと思うばってん、マッチの軸にお礼を言うもんがおらんち言う。だから、マッチすって、有難いと言うたら、軸を捨てる時に、有難うございましたち、もう一遍、押し頂かんのち、いうような生き方をです。もう、その日から、この人は行じた人ですよ。もう、そるけんもう、それこそ、こんがきゃ、もう、ほんな、ありがたかばっかり言うちからち、私が高山さんに言いよった。もう、ありがたかち、言うばっかりのごと。その、言うばっかりに、おかげ頂いてきたです。確かに。白ごつにでん、有難いと言うてくりゃ、おかげ頂いてきたです。ね。ところが、ほんなら、何年間という信心のご無礼が出来て、参ってこなかったでしょうが。そして、今度、娘さんのことで、こりゃもう、ほんなごて、まぁ、親として、そげんもあろうて、ノイローゼになろうごとある心配が起こった訳なんです。ね。もう、それこそ、親先生、いなかずから合楽まで参ってくるとに、もう、それこそ、高山さんな、何、そげん、なんでんかんでん、お礼ば言いなさるのち、連れの人が言うくらいにですね。菜種の花が咲いたら、菜種の花ば拝み。ちょうちょが飛びよら、ちょうちょば拝み、それこそ、蓮華草を拝みして、ここまで拝み、拝み通しでやってくると、ここに、何時も。ね。何でんかんでん有難いち祈る。ところが、親先生、本当にこの、子供のことで、この難儀するのは、第一、ご飯がいけんごとなります。親先生、もう、こげん痩せましたち言うて、見せられました。ね。子供のことで。子供と孫の事。ね。そうしたら、先生、今までは、それこそ、菜種の花にでん、蓮華草にでん、有難い有難いで来よったのがです。自分方の前に、お宮さんがあって、お宮さんに、桜の花が一杯咲きますもん、あそこは。ところがね、目の前にある、桜の花が、何時咲いたやら、何時散ったやら、分からじゃったち言うとる。今年は。と言うぐらいに、自分の心が心配で曇ったら、もう、前が見えんごとなってしまうのですよ。ね。だから、これが信心の稽古、いわゆる、稽古が出来ておるとですたい。さぁ、どっこい、これで 、また、ひと徳受けるぞといったような元気も出ろうけれども、信心の稽古をしとらんから、分かっておりながら、それが出来ない。それこそ、桜の花が、目の前で咲いとったっちゃ、いつ咲いたやら、散ったやら分からんごつなったと言う。だから、高山さん、これからの信心な、目の前に咲いとる桜の花がわかるところまで、信心のおかげを頂いたら、ね。例えば、心配事があっても、桜の花は桜の花として拝めれる様なおかげを頂くことに、これから精進せにゃいけんねと言うて、この頃、敬親会の日でしたけれどね、お話したことです。ね。とにかくもう、稽古しよらなければ、おかげと分かっとってもです。今日の御理解を皆さん、事のその、調子ぐらいは、もう、私だん、二十何年も聞いてきとるから、もう、十分飲み込んで分かっとるごたった。それを、簡単な事を、引いてみたところが、どっこい出来なかったと言う様にですね。実際、本当に、その、手を取って、教えて貰うて、稽古しなければ出来ることじゃないという事。稽古が、とにかく大事です。しかもその稽古の焦点がですたい。本当に、世の中の難儀な人が助けられることを、助けられるという事をね、楽しみに信心させてもらうと言う、焦点のね、そういうところに変えられるおかげを頂きたいですね。どうぞ。